亡くなった人について語るのは不謹慎?真実を遠ざける”不謹慎”というムードの正体

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心・心理学

ここ最近、相次ぐミュージシャンや芸能人の死の報道が絶えません。さすがに数の多さに違和感を覚える人も多いのではないかと信じたいところです。

こうした人の死に関して、いったい何が起きていたのか、という追及をしようとすると、「不謹慎だ」と言う人たちが必ず現れます。

最近ではBUCK-TICKのボーカルの櫻井敦司さんの死に対して、ASKAさんが「何かが起こってる」と投稿し、物議を醸した事案がニュースになりました

BUCK-TICK櫻井敦司さん死去、ASKAの「謎メッセージ」が物議 「人間性疑う」「本当にやめて欲しい」
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「こういう時は素直に冥福を祈るか黙っておきましょうよ」という声が上記ページで紹介されていますが、どこか違和感を持たずにはおられませんでした。

その違和感とは、人の死そのものへの態度と、死に至らしめる出来事の話は別ではないか、というものです。ここを分けずに考えてしまうと、真実から遠ざかってしまいます。

そして「不謹慎」と言う言葉は、亡くなった人への態度と言うより、遺された人たちへの同調圧力的な態度に思われ、その作用は支配のためにも巧みに利用されてきました。

今回は人の死に対する「不謹慎」というムードについて、その正体は何なのか、について書きました。

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亡くなった人に対する”喪に服す”と言う態度

亡くなった人への態度として、「こういう時は素直に冥福を祈るか黙っておきましょうよ」という発言を紹介しました。この発言からは、まず亡くなった人に対して多くの人が取る態度が表れています。

それは亡くなった人に対して”喪に服す”と言う態度です。喪に服す、とは主に近親者に対するものですが、亡くなった人を悼み、一定期間自分の行動を慎むことを指します。

なぜ遺された者がこうした態度を取るのでしょうか。それは、死と言う私たちの日常世界とは異なる、いわば真理の世界への畏怖・畏敬の念があるからではないか、と私は思います。

人の生死とは誰しもに必ず起きる現象であり、紛れもない真理の1つです。

しかし死後を体験できない私たちは、その真理を生きているうちに体感できないというジレンマがあります。だからこそ、人は死と言うものに畏怖・畏敬の念を感じてきました。

畏怖・畏敬の念は、私たち誰しもが自然に感じることができます。その理由は、死について感じているのは、によるものだからではないか、と私は考えます。

このような”喪に服す”態度は、私たちの魂と共鳴し、3次元の現象世界を離れて、”あちら側”に行ってしまった魂に対して感じるものではないか、と考えます。

「不謹慎だ」というムードの違和感と問題

このように亡くなった人を悼む気持ちを通じて、死と言うものへの畏怖・畏敬の念を感じる時間が、日本では大切にされてきました。

それに対して、なぜ亡くなったのか、その人が死に至る出来事について語ることに対して「不謹慎だ」という声を最近よく聞きます。

”喪に服す”態度と、「不謹慎だ」と発言する心は、根本的に違うものです。

確かに亡くなった人を侮蔑するような言葉は避けたいものですが、「人の死については何も語るな」という強い圧力のような言い方には違和感を覚えます。

ここではその違和感と、「不謹慎だ」と迫る心理的な背景、そして問題について書きました。

「不謹慎だ」に見られる強烈な不安と攻撃性

最初に述べた”喪に服す”感覚は、ネガティブなものではなく、むしろ遺された私たちは生きている時間を大切に生きよう、また自分の生き方について見直そう、と言ったポジティブなものです。

しかし「不謹慎だ」という言葉の裏には、人の死に対する強烈な不安から来る攻撃性があるように思われます。

本来、人の死は恐れるだけのものではなく、魂があちら側に戻るのであって、決して正体不明のものではないはずです。

ただ現代では死に関して語ること自体がまるでタブーのような風潮になり、ますます死に関してただただ”恐ろしいもの”や”触れてはいけないもの”になってしまいました。

それゆえ、死に対する漠然とした、それゆえ強烈な不安を感じる人が増えました。不安は攻撃性に繋がります。

本来、”喪に服す”ことは誰かに強要するものではなく、それぞれ自分の中でしめやかに行うものでした。しかし「不謹慎だ」は悼むことを他者に強要する、同調圧力になってしまっています

そもそも亡くなった人へ思いを向けるはずが、遺された側への圧力をかけている時点でおかしな行為のはずです。

最初に取り上げたBUCK-TICKの櫻井敦司さんの例のように、著名人の死の場合、SNS等で様々なことが書かれます。ましてやワクチンをめぐる不審な死者数の増加が取り沙汰されている渦中です。

しかしそれを全て「不謹慎だ」と言ってしまうと、「何か裏があるのでは?」という疑問も感じるべきではない、と一刀両断され、そこで終わってしまうのです。

どうしても一人で悼む気持ちを大切にしたければ、SNSなどを開かず、自分に向かえば良いはずです。なぜSNSなどを見てしまうのか、それは死に関する真実を知りたいからではないでしょうか。

しかし「不謹慎だ」という言葉は、死に至る出来事も含めて全て語るな、と闇に葬り去ってしまう言葉であることが問題なのです。

「不謹慎だ」は真実から遠ざけるために利用されてきた?

改めて整理すると、「不謹慎だ」と言う言葉は、”喪に服す”と言う死者への態度から始まってはいるものの、遺された者に何も語るな、と口を封じさせるかのような同調圧力になっています。

”喪に服す”感覚は、魂で感じているものだと私は思いますが、「不謹慎」はあくまで社会的にそうしなければならない=幻想に過ぎないのです。

そして「不謹慎だ」と言う言葉は、死への恐怖と結び付いて、強烈に人々を1つの方向(死について触れない)へと操作するツールとして、巧みに利用される恐れがあるのです。

その目的とは、不審な死に至るいきさつを隠ぺいするためであり、真実を明かさないように仕向けるためです。

不審な死に対して解明しようと言う動きに対し、「不謹慎だ」という言葉が同調圧力になり、死に至る経緯について解明することを”社会的に望ましくない”と封じるムード作りに加担してしまいます。

しかし死者に対する”喪に服す”態度と、死を解明するという遺された側の行為は全く別のものであり、死者への敬意を込めて、むしろ真実は明らかにされて良いのではないでしょうか。

同じようなことはコロナ騒動で起きていました。外出することや騒ぐことを「不謹慎だ」と同調圧力が強くかかり、お互いを縛り付けるようなムードが発生していました。

「不謹慎」と他人を叩く人たちが映す深刻な問題
新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかからない。社会全体が「コロナ不安症」とでも評すべき症状に覆われているかのようだ。...

コロナも当初は”正体不明の怖いもの”として強烈に印象付けられたせいで、自粛せよの号令に対して従わない者を「不謹慎だ」と叩くことになりました。これも不安から来る攻撃性によるものです。

こうしたムードは外出の自粛をスムーズに進める上で利用されたと言っても良いでしょう。

このように「不謹慎だ」と言う言葉は、不安から来る攻撃的な態度であり、もはや”喪に服す”などの慎ましやかな態度とは全く別物です。

社会的に作られた幻想に過ぎない「不謹慎」という概念は、支配に利用しやすく、一方的なムード作りに意図せず加担させられてしまう点に要注意です。

まとめ – 真実の解明を進めましょう

今回は亡くなった人への「不謹慎だ」と言う言葉について書いてみました。

人の死が、現象世界と真理の世界を繋ぐ出来事であるがゆえ、日常では感じない”喪に服す”と言う態度が生じるのは魂が感じていることです。

しかし「不謹慎だ」と言う態度は社会的に作られたものであり、死をただ恐怖の対象と考えることにより、同調圧力となってしまいます。

その問題は、不審な死が起きた際に、その解明について声を上げると、「不謹慎だ」と何も語らせないかのような態度で、真相解明を封じるムードを作ってしまうことでした。

しかし本来、真相の解明は人の死を悼む気持ちがあってこそ起きるものであり、それを封じるかのような態度は、むしろ人の死をそのまま闇に葬り去ることになってしまうかもしれません。

”死んだら無になる”訳ではなく、少なくとも遺された私たちには真実を知ることを魂が望んでいるでしょう。

これだけ大量のワクチン接種が進められ、不自然な死はこれからたくさん起きてくることと思います。

”喪に服す”意味での死への畏怖・畏敬は保ちつつ、死と言う結末に至った真実を探求する姿勢は持って良いと私は考えます。

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