このブログでは何度か「時間が幻想である」ということを述べてきました。時間は現代の私たちにとっては常に気にするものであり、「幻想である」という感覚を持つのは難しいかもしれません。
しかし心理学や生物学などの研究において、時間は幻想であることの示唆も得られているようです。今回「人間には時間を判断する器官がない」という知見に注目しました。
では私たちはどのように時間を感じているのか、なかなか理解の難しい時間について、改めて幻想であることについて書いてみました。
人間には時間を判断する器官がない
朝日新聞デジタルの記事に、「大人と子ども、時間の感じ方なぜ違う 原因は「代謝」の違い?」というタイトルがアップされました。
※大人と子ども、時間の感じ方なぜ違う 原因は「代謝」の違い?
千葉大学大学院人文科学研究院の一川誠教授による、「時間研究」の知見が紹介されているものです。
タイトルは大人と子どもの感じる時間の違いから始まっていますが、なぜそうした違いが生まれるかの理由として、「人間には時間を判断する器官がない」からと書かれています。
私はこの一文に目を引かれました。
たとえば視覚や聴覚など、いわゆる「五感」と呼ばれるものは、それに対応する感覚器官が備わっています。しかし時間を直接感じる器官は人間にはないというのです。
それゆえ、人間は本来そこまで時間を気にしないで生きてきたのであり、分刻みの生活をするのは生物学的に見ても無理がある、とも書かれています。
日本では戦後になってから、分刻みで生活するようになってしまったようです。
この記事からは思うことは、時間はやはり幻想に過ぎないということ、そして時間による支配が確かに行われ来た、ということでしょう。
人間は時間をどうやって感じているのか?
先ほどの記事から少し広げて、では人間は時間をどのように感じているのか考えてみたいと思います。
歴史的にはどうだったのか、という通説と、私自身が思う時間の感じ方についても述べています。
歴史的にみると時間をどうやって”感じて”きたのか?
人間はいつから時間を”感じて”生きるようになったのか、以下の記事にまとめられていました。
※いつから時間に縛られて人類は生活し始めたのか? 「138億年たってもズレない時計」って知ってる?
時間は「時計」を使って測るものとされますが、約4000年前の古代エジプトで1日をいくつかの単位に分ける、という発想を思いついたそうです。
太陽の動きから計測する「日時計」、そして水が流れるスピードを利用した「水時計」が作られました。
しかし1日の長さは一定ではない(地球の自転と重力の関係)ため、時間がずれていくという問題が生じました。
さらに正確さを求めて、原子を使った時計が作られるようになったとのことです。これは原子の振動する時間をもとに作られたものだそうです。
それでもずれる要因があるため「うるう秒」が導入されているとのことでした。
時間とは動きに付随して生まれる
こうして見てみると、時間は「何かの動きに合わせて」できるものと考えられてきたことが分かります。
時間は、目に見えるものや味など、直接感じるための器官がないため、何かに置き換えるしか、感じ取る方法がないためです。
そのため太陽の動き、水の動き、原子の動きと、動きに付随してできるもの、としてとらえられてきた歴史があります。
疑問に感じるのは、動き=時間だとすれば、動きが止まれば時間も止まるのか?ということです。また時間とは本当に一定に流れていることが真実なのか?と言うことも気になります。
私自身は、時間は一定には流れておらず、まして私たちの外側には”時間”という客観的な何かが存在するのではない、と考えます。
既に最初に紹介した千葉大学の一川教授の記事からも、人間は時間を直接感じる器官はなく、主観的に感じている時間は人によって違いが出る、ということが言えそうです。
そう考えると、どこにも客観的に流れる時間、つまり1分・1秒などと言う単位にもとづく時間は、本来は存在していないと言えるのではないでしょうか。
また私たちが「全てが止まっている状態」を経験することはできません。私たちがたとえ動かずに止まっていても、時間は流れていくように感じます。
それは私たちの身体の中では、常に身体を動かすための運動が行われています。たとえば心臓が動き、血液が流れ、と言うように、全てのものは動き、変化しています。
仏教では常に一定ではないことを、「諸行無常」と言います。この諸行無常の世界に生き続ける限り、絶えず何かが変化し続け、それに伴って時間が生まれ続けることになるのです。
全てが止まった状態を私たちが経験し得ないために、いわゆる科学的な手法で、時間が本当にあるのか検証することは難しいのです。
しかし人によって異なる時間の感覚や、動きに伴ってしか時間が生まれないことなど、断片を繋ぎ合わせて考えるに、時間はその人(その物体)が動くことで生まれる主観的なものに思われます。
ですので本来、人間は時間に縛られるのではなく、変化をするたびに時間を生み出しているだけなのです。
この考えに至るには、心理学などの科学的な手法ではなく、哲学や仏教などを通じて、時間の感じ方を探っていくことになるのです。
時間に関する幻想と支配への利用
これまでのように考えると、時間は私たちの中から生み出されていくものであって、皆と同じ時間を共有している、と言うのは実は幻想に過ぎない、と言えます。
かつて日本では戦前頃までは、それほど1分1秒を争うような生き方ではなく、もっと緩やかに時間を共有していた、と考えられます。
誰かと一緒に過ごす=時間を共有するためには、時間と言う幻想を作り出す必要もあったのでしょう。しかし時間で人を縛り付けるようになると、どうでしょうか。
1分・1秒を争うようになると、自分に対しても他者に対しても、時間の正確さを求めるようになります。「時間に間に合わなければ」という思考が、私たちを支配し始めるのです。
そして支配するためには、時間の幻想を利用することは有効な手立てとなります。働く時間=お金に変換することで、私たちの生きる世界は労働の時間・余暇の時間と勝手に区切られるのです。
しかし時間は本来外側から決まるものでもなければ、人間も時間によって支配されて生きることは、非常にストレスフルな状態であると言えます。
まとめ – 時間の本質を知り自由になる
今回は「人間には時間を判断する器官がない」という知見から出発して、そうであれば、私たちには時間があるのかないのか、私たちとは別に流れているのか、確かめようもないことがわかりました。
しかしどうやら、時間とは主観的に感じているものであり、私たちが動くことに付随して生まれているに過ぎない、と考えた方が自然なのです。
それはどうやっても正確に合わせようとしてもズレていく客観的な”時間”というものが、やはり幻想に過ぎないからでしょう。
なぜ時間について考えることが大事かと言えば、私たちは時間に縛られる思考に向かいがちだからです。しかしそれこそが幻想であり、時間も私たちの中にあるため、縛り付けるものではないのです。
大事なことは、”私の時間”と”あなたの時間”は違う、ということをまず認識することです。そして時間とは、私が何かをすることで起きた変化によって、私の中から生まれているものなのです。
これが自然な在り方だとすれば、逆に客観的な時間に縛られる生き方は苦しい生き方になります。できるだけ、時間に縛られる生活を回避することが、穏やかに生きるために必要でしょう。
そうすると、自然と会社や組織の中にガチガチに縛られた生き方の苦しさが、時間の不自由さにあるとすぐに理解できるでしょう。ここからまずは脱却することが良いです。
もし会社などにいる必要があるならば、自分の仕事の進め方を自分なりに決められるポジションを得ることが、穏やかに生きる秘訣でしょう。
また家族同士であっても、お互いの時間を縛り合い過ぎず、それぞれに時間が流れていることを理解しあえることが大切だと思います。
時間はそれぞれの中にあって、それぞれの時間が大切なもの、という意識でいると穏やかになれるように感じています。
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