ニッポンおとぎ話 – No.3:”エビデンス”は人生に必要?科学的思考がもたらす幻想

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心・心理学

このブログでは3次元世界に広がっている不思議な幻想を、”おとぎ話”と呼んでいます。幻想=おとぎ話とは、私たちが社会を形成する上で必要な、目に見えないものを可視化したツールのことです。

おとぎ話は自由に作れるために、支配者層はおとぎ話を巧みに利用して3次元世界を支配してきた歴史があります。

私たちの住む日本にある不思議なおとぎ話の世界を、「ニッポンおとぎ話」と題して書いています。

今回は人類の発展をもたらしてきたとされる「科学」に焦点をあてます。科学とは、真理の探究を目的とし、人類を豊かにするものとして行われてきました。

しかし私たちの日常生活の中に、過剰に科学的な思考が入り込むことは、時に私たちの視野を狭めてしまいます。

それは科学的思考が幻想に過ぎないためです。ここ数年のコロナ騒動は、まさに科学の”エビデンス”が暴走した結果の騒動であり、エビデンスとの付き合い方は注意したいです。

この記事では、科学的な思考と言う幻想に注意したいことについて書きました。

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科学ができることと限界 – ”エビデンス”の持つ意味

一般的に信じられている科学に関するイメージはどんなものでしょうか?

人類がかつては原始的な生活をしていて、知恵を持ち文明を作り、そして科学が生まれたことで、便利な世界になった、という歴史のイメージが信じられてきたように思います。

科学は人類を豊かにするためのものだ、というイメージです。このイメージは正しくもあり、間違っているようにも思えます。

ここではまず、一般的に言われる科学の定義を確認しつつ、その限界や”エビデンス”と言う言葉についても考えてみましょう。

※私自身、科学の分野にいたこともあったため、少々詳しい記載となります。

科学の定義と”エビデンス”とは?

科学の定義は、「一定の目的と方法の下に行われる、様々な事象の研究活動やその成果」とまとめられます。

ここで言う「一定の目的」とは、真理の探求のことです。真理の探求とは、未知の物質を発見したり、その起源や原理を明らかにすることなどが挙げられます。

また「一定の方法」とは、科学で用いられる仮説に対してデータを用いて、仮説が正しいかどうか検証する研究のやり方のことです。

少し難しくなりましたが、科学は「真理の探求」という高度なことを行おうとしています。この点において、科学の目的は良いもののようにも思えます。

そして真理とは何が起きても成り立つもの、検証すれば常に同じ結果になることが必要です。

そのために実験や観察などを通じてデータを取り、得られたデータが真理と想定される説=仮説が正しい場合には、それはきっと正しいことなのではないか?と考えるのです。

検証した結果や考察をまとめたものを文章にまとめ、それがしっかり科学的な手続きで行われた信頼できるものだとなれば、論文として発表されます。

論文で発表されたものが、いわゆる”エビデンス”と言われているものです。論文は確かな手続きが保証され、記録されたものが証拠(のはず)として、議論に用いられるのです。

※参考ページ:LAAD「第24章 学問と科学の定義と目的」

LAAD|第24章 学問と科学の定義と目的
学問と科学による研究結果たる知は、「正しい」ものと受け入れられている。しかし、その「正しさ」について、無批判に受け入れる...

科学の限界 – ”エビデンス”の限界と科学の暴走

このように見ていくと、科学は真理の探求を行う、人類にとって高度で完璧な営みのように思えるかもしれません。確かに理想的にはそうなのですが、実際には限界があります。

それは科学的な手法の限界です。科学で用いる観察や実験などの研究手法で明らかにできる事象は、ごく限られた範囲のものになってしまいます。

たとえば「要因の交絡」と呼ばれる現象があります。

A→Bという自然現象の関係について明らかにしたい時、厳密にAとBだけが作用しあう訳ではなく、様々な事象が関連しあって物事が起きているのが自然界です。

様々な要因がバラバラに動いたのでは、何が影響して起きた事象なのか分からなくなってしまい、それを「要因の交絡」と言います。

そのためAとBの関係を明らかにするためは、それ以外の要因が作用しないように条件を整えます。

条件を整えた環境で実験を行い、得られた知見から、実際の自然界でも同様のことが起きているのでは?と考察するのが論文で行われることです。

このように科学によって得られるエビデンス一つひとつは、条件の整えられた中での限られた知見であり、実際の現象そのものに当てはめるには無理があります。

エビデンスを積み上げることで、より言えることの範囲は広がっていきますが、それには膨大な時間がかかります。

そのため、科学の議論できるフィールド(論文で表される世界)は限られた範囲となり、その外側に膨大な明らかにされていない事象が広がっている、というのが現状です。

この限界を十分に理解していないと、科学が暴走する事態が起きてしまうのです。

科学との付き合い方 – 真理は本当に科学で明らかにされる?

科学の定義と限界を知ったところで、では本当に科学が私たちを豊かにしているのか、その真実について書いていきましょう。

ここから一気に話を一般的な科学の議論から、視点を変えて、幻想としての”科学”に移っていきます。

目覚めた人にとって、科学とどのように付き合っていくと良いのか、についてまとめました。

科学が人生に影響を及ぼすと言う”幻想” – コロナ騒動とエビデンス

科学は、真理の探求という大きな目的を掲げつつも、現時点で明らかにされている事象より、わからないことの方が圧倒的に多いのです。

しかし科学的な思考は、私たちが”取るべき態度”として推奨されている節があります。それは何かを決める時には、エビデンスにもとづいて客観的に正しいとされることを選択せよ、という風潮です。

こうした風潮は、科学は私たちを豊かにしてきた、という”幻想“があり、科学的な態度は”あるべき”態度とされます。

ただ(科学がもたらした成果のことではなく)科学的な思考があまりに私たちの人生や生き方に入り込むことに対しては違和感を覚えます。

科学的な思考は、科学という土俵において有効なものであって、私たちの人生や生き方になじむものではないのです。

私たちの人生はエビデンスによって決まるものではなく、私たち自身が自分の人生を決めています。

様々なことが起き、たくさんの人との間で、何を選び決めるのか、について確たる証拠などないでしょう。実際には直感や魂の声を聴いて、進む道を選んでいくのです。

そして注意したいのが、客観的な証拠にもとづいて考える=自分で判断しない、になってしまうことです。

昨今のコロナ騒動では、まさにエビデンスに依存しすぎて、自分の人生を決められなくなった人が続出しました。

コロナウイルスという正体不明のウイルスがあると仮定して、その正体を明らかにするのは科学の役割であり、エビデンスによって私たちの生活が決められるかのような状況が生まれました。

しかしエビデンスは限られた知見しかないので、参考程度にしながら、最終的には私たち一人ひとりの判断で生きていくことになります。

そんな中で、マスクやワクチンの”エビデンス”をめぐり、様々な分断が起き、情報が錯綜する事態が生じました。

多くの人は、周りのムードに流されただけですが、「何を信じて良いか分からない」という、エビデンスの迷子のような状態にはなっていたと思います。

むしろ真に科学的な態度をとるなら、現時点でのエビデンスの限界を自覚し、それぞれでマスクやワクチンをどうするのか、自分で決めることこそ大事だったのではないでしょうか。

コロナ騒動でも穏やかに生きるために(前編) – 日常への科学的思考の侵食に注意!

科学を次元に当てはめて考える – 科学は本当に真理にたどりつく?

科学との付き合い方について、最後に次元の考え方と絡めて書いてみたいと思います。

科学がなぜ人類を豊かにしてきた、と考えるかと言えば、3次元=身体感覚だけに頼る原始的な判断を乗り越えるための、4次元=頭脳にもとづく判断に切り替えてきた、と言えるでしょう。

動物的な勘で物事を決めるよりは、データを用いて決めた方が正確である、というのが、科学の根本的なところのように思います。

一方で科学は「真理の探求」という崇高な目的のもとに行われている、と書きました。真理とは5次元以上の高次元に存在するものですが、科学が到達できるのでしょうか。

私の考えですが、現在の方法論の延長線上には、科学が本当の意味での真理に到達するのは難しいのではないか、と考えます。

実際のところ、科学における「真理の探究」とは、こちらのページにも書かれている通り、「今現在における、より正しいとされる物事・事柄・道筋を明らかにすること」です。

反証によって覆る可能性も大いにありうる訳で、人間の頭脳で「これが正しいかもしれない」と考え続けた先に、真理があるというのが科学の世界観です。

しかし5次元では魂で真実を見抜く世界であり、根本的に人間の頭で考える(4次元的なやり方)では、本当の意味での真理(科学が言う真理ではなく)に到達できないのではないでしょうか。

そして科学が高次元を目指しつつも、実際には4次元の争いの世界にある様子が窺えます。

それはエビデンスをめぐる争いと分断です。先ほども述べた通り、コロナ騒動ではエビデンスをめぐって争いがあちこちで起きていました。

マスクやワクチンの推奨・反対をめぐる議論・分断は、エビデンスをめぐって起きています。争いやマウント取りの世界=4次元ですから、まさにその通りの世界が広がっています。

そしてエビデンスが、公正に世に出ているか、と言えば、真実を伝えようとして論文が出せず、場合によっては命を落とした研究者もいます。

またエビデンスの正しさの保障が、権威ある学術の世界(査読をする機関)によって行われ、ここでもマウント取りの争いにより、発表される論文・されない論文が出てくるのです。

本来、そのような権威による圧力は科学にあってはならないのですが、残念ながら科学の世界も4次元のピラミッド構造に組み込まれてしまっているのです。

まとめ – 科学と私たちの付き合い方

最後に私たち、つまり科学者ではない私たちであり、目覚めた私たちが科学とどう付き合っていくか、という点をまとめましょう。

科学とは真理の探求を求めつつ、その態度は一つずつのエビデンスを積み上げていくというものです。理想的には真理に到達するはずですが、実際には難しいとするのが筆者の立場です。

そして科学的な考え方は、ごく限られた科学のフィールドの中でこそ発揮されるものであり、日常生活に過剰に持ち込むことは危ういでしょう。

それは科学自体も幻想であり、幻想に支配されて、私たち自身の人生を見失ってしまっては元も子もありません。

科学は3次元を抜け出すと言う意味で有用だったのですが、行きつく先は4次元のマウント取りの世界でした。ですので、科学的な態度にどっぷり浸かる必要性は全くないと考えます。

むしろ大切なのは、自分はどう考えるか、という自分軸です。そして「どう進むべきか」ではなく、「どう進みたいか」と言う自分の行きたい方を選んでいけば良いのです。

科学の思考は、ややもすると、客観的なデータが示すから、”こうすべき”と言う方向に行きがちです。しかし私たちの人生には「すべき」ということはありません。

科学的な態度とは適度に距離を置き、使えるところだけ使う、くらいの感覚でいるのが良いでしょう。

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