一歩外に出れば全員マスク姿。日本ではこんな異様な光景が当たり前になってしまいました。
が、ようやく「屋外での着用」は必要ないという見解が多くなっています。(屋外での着用義務など最初からあった訳ではないですが)
東京都医師会は「屋外ではマスクを外す」という段階的な感染対策解除を求め、松野官房長官は11日の記者会見で「人との距離が十分取れれば、屋外では必ずしも必要ない。」との認識を示しました。
しかし、この2年間マスクをつけ続けてきた人たちは、外そうと言われても、マスクなしは不安で外せない人が多いのではないか、と思うことがあります。
それは電車に乗り込んだ時のこと。ノーマスクの私を見た途端、逃げ出すように別の車両に移動する人がいました。
よほどノーマスクの人が怖いのでしょうか。
しかしさらに不可解なのは、顎マスクで乗っていると、別の車両に移動する人はほとんどいないことです。
マスクで鼻や口を覆っていない状態であるのは同じなのに、なぜ反応が異なるのでしょうか。ここにマスクをめぐる”不安”の問題が隠れているように感じます。
今回は「電車でのノーマスクは逃げるが、顎マスクだと逃げない」と言う不思議な現象がなぜ起きるのか、その心理を分析してみました。
そしてマスクが感染対策などではなく、”不安”というメンタルの問題になってしまっている現状について考察します。
”電車の中”と言う場所がもたらす心理状態

「電車でのノーマスクは逃げるが、顎マスクだと逃げない」と言う現象を説明するために、まずは”電車”という場所について押さえておく必要があります。
電車の中とは、思っている以上に緊張感の中にある場所だ、ということがポイントの1つです。
まずは1度乗れば、閉鎖された空間であり、駅でしか降りることができません。しかもどんな人が乗っているか分からず、常にいくらか気を張っている状態でもあります。
さらには混雑もあれば、臭いや暑さ・寒さなど、ストレスのかかる要因もたくさんあります。
このような電車の中では、多くの人が「厄介事に巻き込まれたくない」「平穏にやり過ごしたい」という心理状態になっています。
(あるいはそうした心理状態から逃れるために、眠ってしまうという方法もあるでしょう。)
こうした心理状態になる理由は、長時間過ごす場所ではない、という点にもあります。
乗車時間は長くても1時間以内くらいの人が多いため、あまり頭を使うことなく、いかに何事もなくやり過ごすか、という考え方が選択される傾向にあるように思います。
このような”電車の中”の心理状態を踏まえ、マスクをめぐる問題を考えてみたいと思います。
ノーマスクから逃げようとする心理とは?

さて、ノーマスクの人を見ただけで、別の車両に移動する人の心理を考えてみましょう。
1つには、「逃げ出す」ように移動すると言うことは、ノーマスクに恐怖の感情を覚えるということです。
驚くべきことですが「ノーマスクの人からコロナを移される」と信じている人が一定数いるようです。
また万が一コロナにかかって、社会生活がストップしたらどうしようと、考える人もいるかもしれません。「コロナを移される」よりは少し冷静ですが、根本は不安によるもので変わりません。
つまり本当に感染対策のため、コロナに対する不安や恐怖から距離を置こうとする人たちです。
しかし、電車に乗っている人が、こんな絵に描いた”コロナ脳”ばかりであるとも思えません。もう少し別の理由の人もいるように思います。
たとえば、”このご時世”にマスクもしない変な奴の近くにいたくない、と考える人もいるかもしれません。
これは先ほど述べた電車に特異的な考えに思われ、ずっと叫んでいる人がいれば別の車両に移動するのと同じです。とにかく「厄介事に巻き込まれたくない」という心理です。
また電車と言う緊張状態の中、さらにノーマスクという緊張状態の中にあることに耐えられない、という人もいるかもしれません。
こうした思考はいずれも電車の中と言う場所の要因が関係しています。
電車は短時間だけ過ごすものの、かつ緊張のかかる場所であり、そう言った場所では熟慮すると言う行為はまず行いません。むしろ非常に短絡的な思考が助長される傾向にあるように思います。
「厄介事に巻き込まれたくない」「無事にやり過ごしたい」という考えが、ちょっとのリスクでも避けておきたい、という思考に結びついているのです。
それゆえ「ノーマスク」がいつも以上に脅威となって感じられるのではないか、と考えます。
よく考えれば、話もせず乗っている1人のノーマスクの人が感染拡大をもたらすとは思えませんし、ノーマスクの人の多くは、ただ自分がマスクをつけたくないだけで、厄介事は起こしません。
しかし電車の中では、できるだけ厄介事に巻き込まれたくないと考えるので、「ノーマスク」は許されないリスクとして、避けるべきと短絡的に判断する傾向が強まるのでしょう。
顎マスクから逃げる人が少ないのはなぜ?
感覚的なものですが、ノーマスクに比べると顎マスクをしていれば、逃げるように移動する人は少ないように思います。
マスクを正しく装着していない、と言う点では同じはずですが、なぜ反応が違うのでしょうか。
これは先ほどの短絡的なリスクの判断の目印が、”マスクが見えるかどうか”にあるからではないか、と考えます。
つまり顔のどこにもマスクの付いていない人物は危険ととっさに判断するものの、顎にマスクがついている微妙な状態は、判断を鈍らせる要因なのではないでしょうか。
逆に言えば、マスクは”安心”のシグナルとして機能しており、たとえ顎であっても”安心”のシグナルがあると、すぐに危険だと判断しなくなってしまうのです。
たとえば、「顎マスクをしているのだから、普段マスクをしない人ではない」とか「一時的に外しているだけかも」などと判断し、それで判断を終わらせてしまうのです。
結果的にずっと顎マスクのままであれば、ノーマスクの人と何ら状態としては変わりません。それでも最初に”マスク”が目に入るかどうかの印象が大切なのです。
その結果、とっさに逃げるように車両を移動するという行動には出ないように思えます。
これも電車と言う、あまり難しいことは考えたくない場所だからこそ、短絡的に判断した結果、顎マスクは大きな問題とはならない、という判断になってしまうのです。
本当にコロナが怖くて仕方のない人以外は、顔のどこかにマスクをつけていれば、安心と判断されるようないい加減なものだと言えます。
マスクは「不安な気持ちを解消するために」つけるもの?

今回は「電車でのノーマスクは逃げるが、顎マスクだと逃げない」と言う現象について説明してみました。
どうやら背後には、電車と言う場所で起きてしまう短絡的思考、そしてマスクが”安心”のシグナルとして機能しているように思えます。
そのシグナルが見えないノーマスクは危険と判断し、顎マスクは危険とは判断されないのではないか、と結論付けました。
この中で問題となるのは「マスクが安心のシグナルとして機能している」と言う点です。
時々お店のアナウンスでも「お客様の安心のためにも、マスク着用をお願いいたします」と言ってしまっている場所もあります。
マスクが感染対策として有効かどうか、よりも、安心感を与えるためにつけるもの、として機能してしまっている点は、もはや目的が変わってきています。
そして感染症という不安なものに対し、安心を与えるものとしてのマスク、と言う洗脳が行われていると言うこともできるでしょう。
マスクの科学的な効果を主張する人もいますが、不安を利用して多くの国民が洗脳させられたという害の方が圧倒的に大きいと考えます。
マスクに反対する人たちは、この点を批判して、ノーマスクを実行しているのです。
そして不安と言う感情は最も利用しやすく、簡単に支配の道具に使われてしまいます。
マスクをめぐっては、まず不安にさせるような状況を作った側が悪いのは言うまでもありません。それはコロナを煽り、マスクを推奨してきた国や政治家、専門家、マスコミなどです。
その一方で、その不安な世界にまんまと乗せられた側にも問題があるでしょう。何の疑問も持たずに報道を鵜呑みにし、マスクが安心の道具になるまで、従順に着用を続けた国民のことです。
この洗脳状態を解くには、「段階的なマスク着用の解除」というような、自発性を促すような方策ではもはや難しいようにも思えます。
一度「マスク禁止」ぐらいのことを言わないと、マスクから離れられないような気もします。しかしそれでは根本的な解決にはなりません。
マスク着用が不安から来ているもの、そして不安によって洗脳させられている物事が他にもたくさんあることを、自覚しなければなりません。
いかに私たちの感情が利用され、搾取されているか、自らの心を振り返ることが重要だと考えます。マスクはそうした支配の構造に気づくきっかけとなればと思います。
※【仏教】新型コロナウイルスのある世界から抜け出すには? – 仏教の説く”心の世界”から考える
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コメント
マスクについての記事をありがとうございます。
今や公共の場に出る時は、皆マスク着用がマナーであるかの様に思い込んでしまっているのが悩ましいと思います。
クシャミや咳を頻繁にするような風邪やアレルギーの症状があったり、食品を扱う仕事などは、水飛沫を周りに飛ばさない目的で着用することはエチケットとして意味があると思います。
何も症状が無く健康に過ごせている人が、社会生活を穏便にこなす為に、周りに合わせてマスク着用し続けるのは確かに違和感があります。
自分の健康状態を自分で把握して、必要かどうかをその都度自分で判断する…という姿勢が望ましいと思います。
「麻酔や酸素吸入用以外のマスクは、薬機法では医療機器ではなく雑品の扱いで、医療的な効果が政令で定められていないもの」
とネット上で指摘されていた記憶があります。
病原体の感染予防に効果があるかの様に誘導されて思い込んでしまったという事なのかな…とも思います。
現在の感染についてのイメージが、「ヒトからヒトへの伝染」を元にしている気がします。
ヒトの呼気や水飛沫を必要以上に怖がる風潮を創り上げる事に、マスクが一役買ってしまったのかも知れません。
健康な人が、病気の人の呼気や検体を吸い込んでしまっても、同じ病気になるとは限らないと思います。
食べ物や飲み物や注射剤や飲み薬などで、少しずつ体内の細胞に毒性を蓄積した場合には、病気の細胞となり自発的に分解・体外への排出が始まるとの説も読んだ記憶があります。
感染というものへの思い込みや誤解が無いか、医学的な「まやかし」が無いかが解明され、必要な公表がされる社会を望みます。
真実の医学的知識を理解することにより、自分にとってマスク着用が必要かどうか、自らで判断出来るように思います。
Siroさま
コメントありがとうございました。
やはりなぜか一律マスクをすることが推奨されているところに違和感を感じます。
本来、適切な場所で使用することで効果があったもののはずですが、何とか理屈をつけてつけさせているように見えます。
またウイルスが「人から移される」というイメージも、恐怖とともに植え付けられたものに思えます。
おっしゃる通り、その人の体調などで必ず病気になると言う物ではないはずです。
私としては真の医学的知識ももちろん大切なのですが、それ以前に感情で支配され、真の知識までたどり着けなくさせられている状況こそまずいと考えます。