結局のところマスクについて分かり合えない理由は何なのか? – 5次元思考から考える議論の無意味さ

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心・心理学

2年半を過ぎてなお、日本では新型コロナウイルスの感染に関する報道が続き、街中ではマスクをした人で溢れ返っています。

9月15日には、WHOは「収束が見えてきた」という発表もしていますが、日本人はいつマスクを外すのだろうと思ってしまいます。

WHOテドロス事務局長 新型コロナ“終わりが視野に入ってきた”|NHK
【NHK】WHO=世界保健機関のテドロス事務局長は記者会見で、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大の現状について「まだ到達していないが、終わりが視野に入ってきた」と述べたうえで、収束に向けて感染拡大防止の取り組みの継続を訴えました。

その一方で、「マスクはマナー」「マスクをしない方が不安」と、この2年半で”新しい生活様式”にすっかり馴染んでしまった人たちが圧倒的に多くいるようです。

いまだに店によってはマスクの着用がないと入店を拒否したり、マスク着用をめぐってのトラブルもあると聞きます。

そしてこの2年半、SNS上で、リアルでマスクをめぐって数えきれないの議論(あるいは説得)が行われて来ました。

それにもかかわらず、全く双方が分かりあえないのは、結局のところなぜなのでしょうか

そもそも「マスクをめぐる議論」の本質とは何なのか、そして5次元思考から”議論”自体の無意味さについて指摘しよう、という内容です。

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マスクをめぐる議論の問題とは?

なぜマスクをめぐる議論は、全く分かり合えないのでしょうか。まずはその議論が、どんな内容であり、どんな本質的な問題があるのか、について書いてみたいと思います。

マスク着用の必要性に関する議論

マスクをめぐる議論は、まずはマスクのメリット・デメリットなどから着用の必要性を論じる物から始まっています。

まずマスクの着用が必要と主張する人は、マスクを通過するウイルスの量が有意に減ることなど、科学的なエビデンスに基づいて意味があることを述べます。

確かにそれは、科学的な手続きに沿って得られた証拠の1つには違いありません。

一方でマスクの着用が必要ないと主張する人は、ミクロな視点で個人のマスクの中のウイルスが減ったかどうかより、社会全体でマスクをつける意味があったのか、という点の方を重視します。

日本はほぼ全員がマスクをつけている状況下においても、新規感染者数が世界一となったという報道がありました。

日本、6週連続で世界最多 コロナ新規感染、死者は2番目:東京新聞 TOKYO Web
【ジュネーブ共同】世界保健機関(WHO)は31日、新型コロナウイルス感染症の集計で、22~28日の1週間の新規感染者数が日本は前週比1...

この実態を見ても、まだマスクに効果があると言い張るのには無理があるのでは、というのがノーマスク派の人たちの主張です。

しかし着用派の人たちは、きっと「そんなエビデンスがある訳がない。もっと色んな要因がある。」と反論してくるでしょう。

この反論も科学のお作法的には正しい反論と言えます。それに対して、マスクの繊維の隙間からウイルスなんて通り抜けてしまうことなど、別の反論を用意することも確かにできます。

しかし私たちが生きているのは、科学のエビデンスで全て説明がつく世界ではありません

そして私たちは、科学的エビデンスそのものを判断材料にして生きている訳でもありません。エビデンスは活用しつつも、直感や、経験値などを用いて判断しているのです。

マスクの着用をめぐり、エビデンスが必要な科学の土俵で議論しようとする層と、エビデンスなどなくとも、起きている現象を見れば明らかだ主張する層では、議論は平行線になるほかありません。

このように見ていくと、マスクの着用をめぐる議論は、両者の価値観の違いが表面化している、ということが露呈された形になります。

科学重視の人からすれば、「そんな非科学的な考えでは議論ができない」と思うかもしれませんが、一方で、科学の中でしか生きていない人とも議論はできないと同じように反対の層は考えています。

結局、何を判断の軸に生きているか、の違いゆえに、議論は平行線をたどります。つまり価値観の違いの問題になってくるのです。

規範に関する議論が露呈した生き方の軸の問題

マスク着用の議論は、価値観の違いの問題になってくる、ということを述べました。その問題は、特にマスクの議論が、マスクをめぐる規範の議論に移ってきたことでさらに顕著になりました。

つまり、マスク着用のエビデンスの是非よりも、マナーとしてマスクを着用すべき、いやそれはおかしい、という議論です。

マスク着用派は、これまで科学的なエビデンスで主張してきた層に加え、上から言われたことを信じている人、何も考えていない人、なども加わって多数派になってしまいました。

一方でノーマスク派は、この”ご時世”に常識に歯向かう、頭のおかしな人たちになってしまったのです。

マスクに関して、日本では「同調圧力」と言う言葉が用いられたように、周りがつけるからつける、というムードも問題になりました。

こうして規範の議論になって、さらに価値観の違いの問題が明確になってきました。

それは生きる判断の軸が、自分の中にあるか外にあるかの違いです。マスク着用派のほとんどは、自分の外に軸を置いて生きています。

何も考えていない人、周りがつけるからつける、という人は間違いなく自分の考えの軸などありません。そして科学的な判断をしている、という人も実は自分の中に軸はありません。

科学というツールは自分のものではなく、外にあるものです。自分がどう思うかではなく、科学のお作法に任せて判断させる、というものなのです。

一方で自分の軸を持っている層は、周りがどうであれ、自分の持っている感覚を信じて生きています。そしてその感覚で見れば、マスクがおかしな点だらけのことは自明のはずです。

外に判断の軸を置くから、一番大事な本質が見えてこない、というのがマスクの問題なのです。

しかしそんな生き方の軸の違いがある両者が議論しても、全く議論にならないことは分かるでしょう。

そして価値観の相違・生き方の相違について、議論しても意味がありません。何かを信じて生きている人に、それは間違っていますよ、と言っても変わるはずもないのです。

自らその生き方から出ようと思わない限り、絶対に変わりません。ですので、マスクの議論はするだけ無駄、ということになると思っています。

5次元思考からマスク問題の”議論”のさらなる無意味さを考える

ここまで、マスクをめぐる議論は、価値観の相違によるぶつかり合いであり、説得しようとすることは意味がない、と述べてきました。

一方で、そう頭では分かっていながら、感情的に意見の合わない人と議論をしてしまう人もいるように見受けられます。

ここからは、もう1歩踏み込んで、5次元思考からマスクの議論について考えてみたいと思います。

そもそも”マスクの議論”自体が3次元の世界?

マスクをめぐる議論は、実は3次元世界で起きていること、という理解が重要だと考えます。

そもそも議論は意見を論じ合うこと、を意味する言葉です。

そして意見を論じる際には、単に言いたいことを述べるのではなく、専門的な見地から、証拠を並べて、それぞれの見解を戦わせるというものです。

しかし、マスクの議論は、どう生きるかという価値観と結びついたものだ、と書きました。価値観に関する議論とは、確かに実際にあり得るものではありますが、熱心にやる意味があるのでしょうか。

私たちがどう生きるか、について、私たちの外にある軸(客観的な証拠)でどうなのか、と考えること自体、それは私たち一人ひとりの人生に重要な意味は持ちません。

結局のところ、マスクをつけるかどうか、など自分が決めれば良いことだ、と割り切って良いのです。どうすれば良いのか、外に判断を委ねること自体、3次元世界の思考です。

3次元の思考とは、自分の軸がなく、常に不安と隣り合わせです。不安があるからこそ、それが攻撃となって、自分と違う意見の人とぶつかり合うのだと思っています。

しかも「マスク推奨VSノーマスク」という2項対立の世界もまた、3次元の思考です。分かりやすい2者択一を迫る思考も、根源には不安があり、どちらかに無理やり決めさせるものです。

不安な者どうしの議論になど、首を突っ込まないのが吉です。”目覚めた”という人が、マスクの議論に乗っかってしまうのは、まだ”目覚め”の度合いが浅いことを意味していると感じます。

上の次元の思考に向かおうとしているのに、わざわざ3次元に降りて、不安に巻き込まれに行く必要などないのです。

そして次元が違えば、まるで外国語どうしで会話しているような状態です。話が分かり合えないのは当たり前なのです。

なぜ政治・経済の変革と、”次元上昇”を結びつけて考えるのか? – 3~5次元世界の筆者の考え方

5次元思考では”コロナのない”世界へ

それでは5次元思考で、マスク・コロナの問題を考えるとどうでしょうか。

5次元の思考とは、常に複数の時間軸の中を飛び交うような思考だと考えています。つまり、この時間軸で絶対に生きなければならない、というものではありません。

そして5次元の思考では、自らを苦しめるような思考は次々と手放していくことができます。

そう考えると、実は簡単なことです。”コロナのない”世界を生きていけば良いだけのことです。

「現実にコロナ禍はあるじゃないか」と言うかもしれません。確かに現象としては起きていても、自分の生きていく道の中からは外してしまうことができます。

以前書いた記事では、5次元思考ではなく、仏教の捉え方からコロナのある世界から抜け出す方法を書きました。

【仏教】新型コロナウイルスのある世界から抜け出すには? – 仏教の説く”心の世界”から考える

コロナがあると思えば、PCRを受けなければ心配であり、結果コロナ陽性となって、”コロナに罹った”ことになるのです。

しかしコロナのない世界に生きていれば、PCRなど意味のないものであり、ただ健康に暮らしていれば、それで日常はずっと過ぎていきます。

3次元の思考では、不安がコロナのある世界を作り出し、その中でマスクをめぐって議論が行われ、分断が作られる”地獄絵図”とも言える状況になっています。

コロナの根本が不安にあることが分かれば、不安のない5次元の思考では、関わらないことこそ1番平和に過ごせる方法だ、ということが分かるはずです。

次元の違いを理解することで、いかにマスクをめぐる議論に参加しないか、が重要であるかがお分かりいただけるのではないでしょうか。

まとめ – 5次元思考で穏やかな”対話”を

ここまでマスクをめぐる議論の分かり合えなさ、そして無意味さを説明してきました。大きく分けると2段階の話になっていました。

まずは、マスクをめぐる議論が価値観の対立によるものであることを指摘しました。価値観の対立とは、結局のところそれぞれの生き方に関わってくる話です。

自分が何を大切にして生きているか、の違いについては、議論をしても平行線をたどるのみでしょう。

そして3次元・5次元思考の話を考えれば、マスクをめぐる議論自体、不安が本体にある3次元の世界で起きている現象だと理解するのが良いでしょう。

真実に気づき、自分らしい生き方を目指そう、という人が、わざわざ3次元の不安な人たちの地獄絵図の中に埋もれる意味はありません。

コロナのない世界線をイメージし、自分が楽しいと思うことを日々積み重ねていけば、何らコロナとは関わりのない生活を送ることが可能だと思います。

もしどうしてもコロナについて、マスクについて話さなければいけない場合はどうすれば良いでしょうか?

大事なことは、自分の外にあるもので”議論”しないことです。証拠を持ってきて、論破する、というやり方自体が、3次元的でマウントを取り合う暴力の世界です。

あくまで自分の中にあるものどうしで、”対話”することだと思います。マスクが必要だ、という人にも、きっと何故そう思うのか、その人の中に答えがあるでしょう。

それが何なのかを見極め、その人自身の問題として、話し合うことをおすすめします。そうすれば、話はマスクから、全然違うところに向かうかもしれません。

このような話し方は、カウンセリングでの技法に近いものですが、5次元思考においては非常に重要な態度だと感じています。

まずはコロナやマスクの話が、人を不安な世界に誘い込むもとであることを、しっかり自覚することこそ重要だと考えます。

そして5次元思考から、不安で覆われたコロナの世界とは別の世界の中で生きることを選択しましょう。その軸さえ固まれば、コロナやマスクについても1段上の視点から見ることができます。

激動の世界だからこそ、5次元思考で穏やかに生きていきたいものです。

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